吉川さおり 参議院議員(全国比例)

活動記録

沖縄慰霊の日 2015年06月23日

2015年6月23日

  • 対馬丸の体験談

一方的な戦後最大の会期延長議決が政府・与党により
行われたため、6月23日に審議が予定されていた本会議、
委員会は、衆参ともにすべて取りやめとなりました。

私も委員長として、筆頭間協議等の結果を踏まえ、
経済産業委員会の取りやめを決定せざるを得ませんでした。

会期末の6月24日までに、参議院として議論すべき法案の
議論はしっかり行う、との各会派の合意の下、6月19日には、
参議院常任委員会定例日外でありながら参考人質疑を行う
など、精力的に審議を進めていただけに、様々な意味で何とも
表現し難い気持ちになりました。

6月23日は、沖縄慰霊の日です。

毎年、国会情勢が許せば、この日は沖縄に入っていること
から、今年は急きょの日程となりましたが、行ってまいりました。

また、今年は、対馬丸に乗船していたNTT-OBの方から
体験談をうかがう機会があり、平和に対する思いを改めて
強くしました。

対馬丸が1944年8月22日夜、政府命令による沖縄からの
学童疎開輸送中に米国軍の攻撃を受け沈没してしまったこと、
多くの学童が犠牲になってしまったことは、事実として知っていた
はずですが、実際に乗り合わせた方からの話は、とても重いもの
がありました。

体験談を語ってくださった先輩は、当時4歳8ヶ月。

学童として乗船したのではなく、お母様と一緒に一般客として
乗船し、お姉さんは学童として乗船したとのことでした。ちなみに、
乗船場所は、学童が前方、一般客は後方とのことでした。

対馬丸を米国軍からの魚雷が命中した後、耳に残っている言葉は、
「早く海に飛び込め!、早く船から離れろ!」の声で、一般客として
乗船していたお母様と一緒に真っ暗の海に飛び込み、醤油樽の
筏に必死でつかまったそうです。

ただ、学童乗船していたお姉さんの姿は分からず、一緒に筏に
つかまったはずのお母様は「筏から絶対に手を離さないようにね。
お姉さんを探しに行ってくるからね」と言い残した姿が、お母様との
一生の別れになってしまったそうです。

対馬丸は、834名の学童のうち、775名もの学童が犠牲に
なってしまいました。助かったのは、たった59名です。

漁船に助け上げられたのも様々な偶然の積み重ねだったこと、
鹿児島で緘口令を敷かれたこと、対馬丸の事件を話すと刑務所
行きだと言われたこと、これだけ苦しい思いをして何とか助かった
にも関わらずさらに辛い思いをされたことなど、多くをうかがいました。

当時は、対馬丸を含め、ほかに2隻、護衛艦が2隻いたそうですが、
ほかの船は逃げるのに必死で、護衛艦ですら護衛どころではなかった
そうです。

どんな理由や理屈をつけようとも、我々は絶対に二度と
戦争をしてはいけないと、改めて強く胸に誓った一日となりました。

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